巻次
第四帖
821頁
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れあるべし。かの仁体において、はやく御影前にひざまずいて、回心懴悔のこころをおこして、本願の正意に帰入して、一念発起の真実信心をもうくべきものなり。それ、「南無阿弥陀仏」というは、すなわちこれ念仏行者の安心の体なりとおもうべし。そのゆえは、「南無」というは帰命なり。「即是帰命」というは、われらごときの無善造悪の凡夫のうえにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。そのたのむこころというは、すなわちこれ、阿弥陀仏の、衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して、往還二種の回向を衆生にあたえましますこころなり。されば信心というも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の、別のことのようにおもえり。これについて、諸国において、当流門人のなかに、おおく祖師のさだめおかるるところの聖教の所判になき、くせ法門を沙汰して、法義をみだす条、もってのほかの次第なり。所詮かくのごときのやからにおいては、あいかまえて、この一七か日報恩講のうちにありて、そのあやまりをひるがえして、正義にもとづくべきものなり。

一 仏法を棟梁し、かたのごとく坊主分をもちたらん人の身上において、いささかも相承もせざる、しらぬえせ法門をもって、人にかたり、われ物しりとおもわれんためにとて、近代在々所々に繁昌すと云々 これ言語道断の次第なり。
一 京都本願寺御影へ参詣もうす身なりといいて、いかなる人の中ともいわず、大道大路にても、また、関・渡の船中にても、はばからず、仏法がたのことを人に顕露にかたること、おおきなるあやまりなり。
一 人ありていわく、「我が身はいかなる仏法を信ずる人ぞ」とあいたずぬることありとも、しかと、「当流