巻次 - 849頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 て不審なることをも申されて、人々にたずね申され候いて、信心決定せられ候わんずることこそ肝要たるべく候う。その分よくよく御こころえあるべく候う。それにつき候いては、なにまでも入り候うまじく候う。弥陀をたのみ信心を御とりあるべく候う。その安心のすがたを、ただいま、めずらしからず候えども、申すべく候う。御こころをしずめ、ねぶりをさましてねんごろに聴聞候え。 それ、親鸞聖人のすすめましまし候う他力の安心と申すは、なにのようもなく一心に弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまえと申さん人々は、十人も百人も、のこらず極楽に往生すべきこと、さらにそのうたがいあるべからず候う。この分を面々各々に御こころえ候いて、みなみな本々へ御かえりあるべく候う。あなかしこ、あなかしこ。明応七年六月中旬4 そもそも、今月十八日の前に、安心の次第、あらあら御ものがたり申し候う処に、面々聴聞の御人数のかたがた、いかが御こころえ候うや、御こころもとなくおぼえ候う。いくたび申しても、ただおなじ体に御ききなし候いて、毎日において、随分、勘文をよみ申し候うその甲斐もあるべからず、ただ一すじめの信心のとおり御こころえの分も候わでは、更々、所詮なきことにて候う。されば、未安心の御すがた、ただ人目ばかりの御心中を御もち候うかたがたは、毎日の聖教には、中々、聴聞のことも無益かとおぼえ候う。その謂われはいかんと申し候うに、はや此の夏中もなかばはすぎて、二十四・五日の間のことにて候う。また上来も、毎日聖教の勘文をえらびよみ申し候えども、たれにても一人として、今日の聖教になにと申したることの、とうとき 紙面画像を印刷 前のページ p849 次のページ 第二版p1018・1019へ このページの先頭に戻る