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し候うに、毎日の聖教になにたることを、とうときとも、又殊勝なるとも申され候う人々の、一人も御入り候わぬ時は、なにの諸篇もなきことにて候う。信心のとおりをも、又ひとすじめを御ききわけ候いてこそ、連々の聴聞の一かどにても候わんずるに、うかうかと御入り候う体たらく、言語道断、然るべからず覚え候う。たとえば、聖教をよみ候うと申すも、他力信心をとらしめんがためばかりのことにて候う間、初心のかたがたは、あいかまえて、今日のこの御影前を御たちいで候わば、やがて不審なることをも申されて、人々にたずね申され候いて、信心決定せられ候わんずることこそ、肝要たるべく候う。その分よくよく御こころえあるべく候う。それにつき候いては、なにまでも入り候うまじく候う。弥陀をたのみ、信心を御とりあるべく候う。その安心のすがたを、ただいま、めずらしからず候えども、申すべく候う。御こころをしずめ、ねぶりをさまして、ねんごろに聴聞候え。
 夫れ親鸞聖人のすすめましまし候う他力の安心と申すは、なにのようもなく、一心に弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまえと申さん人々は、十人も百人も、のこらず極楽に往生すべきこと、さらにそのうたがいあるべからず候う。この分を面々各々に御こころえ候いて、みなみな本々へ御かえりあるべく候う。あなかしこ、あなかしこ。

明応七年六月中旬

(四) 抑も、今月十八日の前に、安心の次第、あらあら御ものがたり申し候う処に、面々聴聞の