巻次 - 1017頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 とにて候う。そのとおりを、あらまし、只今申し侍るべく候う。御耳をすまして御きき候え。 夫れ安心と申すは、いかなるつみのふかき人も、もろもろの雑行をすてて、一心に弥陀如来をたのみ、今度の我等が後生たすけたまえともうすをこそ、安心を決定したる念仏の行者とは申すなり。この謂われをよく決定してのうえの、仏恩報謝のためといえることにては候うなれ。されば、聖人の『和讃』(正像末和讃)にも、このこころを、「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし」とおおせられたり。此の信心をよくよく決定候わでは、仏恩報尽ともうすことはあるまじきことにて候う。なにと御こころえ候うやらん。この分をよくよく御こころえ候いて、みなみな御かえり候わば、やがて、やどやどにても、信心のとおりを、あいたがいに沙汰せられ候いて、信心決定候わば、今度の往生極楽は一定にてあるべきことにて候う。あなかしこ、あなかしこ。明応七年五月下旬(三) 抑も、今月は既に前住上人(存如)の御正忌にてわたらせおわしますあいだ、未安心の人々は、信心をよくよくとらせたまい候わば、すなわち今月、前住の報謝ともなるべく候う。されば、この去んぬる夏比よりこの間にいたるまで毎日に、形の如く、耳ぢかなる聖教のぬきがきなんどをえらびいだして、あらあらよみ申すように候うといえども、来臨の道俗男女を、凡そみおよび申し候うに、いつも体にて、更にそのいろもみえましまさずとおぼえ候う。所詮、それをいかんと申 紙面画像を印刷 前のページ p1017 次のページ 初版p847・848へ このページの先頭に戻る