巻次 - 860頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 26一 明応五年、九月二十日、御開山の御影様、空善に御免あり。なかなか、ありがたさ、もうすにかぎりなきことなり。27一 同じき十一月、報恩講の二十五日に、御開山の御伝を、聖人の御前にて、上様、あそばされて、いろいろ御法嘆そうろう。なかなか、ありがたさ、もうすばかりなく候う。28一 明応六年、四月十六日、御上洛にて、その日、御開山聖人の御影の正本、あつがみ一枚に、御みずからの御筆にて御座候うとて、上様、御手に御ひろげそうらいて、みなにおがませたまえり。「この正本、まことに、宿善なくては、拝見もうさぬことなり」と、おおせそうろう。29一 のたまわく、「「諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまう」(高僧和讃)というは、諸仏の、弥陀に帰して、衆生をたすけらるることよ」と、おおせそうろう。30一 「一念の信心をえてのちの相続というは、さらに別にあらず、はじめ発起するところの安心に相続せられて、とうとくなる一念のこころのとおるを、「憶念の心つねに」とも、「仏恩報謝」ともいうなり。いよいよ、帰命の一念、発起すること肝要なり」と、おおせそうろうなり。31一 のたまわく、「朝夕、『正信偈』・『和讃』にて念仏もうすは、往生のたねになるべきか、たねにはなるまじきか」と、おのおの、坊主に御たずねあり。みな、もうされけるは、「往生のたねになるべし」と、もうしたるひともあり、「往生のたねにはなるまじき」と、いうひともありけるとき、仰せに、「いずれもわろし。 紙面画像を印刷 前のページ p860 次のページ 第二版p1031・1032へ このページの先頭に戻る