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ところにて、つみ、みなきえて」とあるは、一念の信力にて往生さだまるときは、つみは、さわりともならず。されば、なき分なり。いのちの、娑婆にあらんかぎりは、つみはつくるなり。順誓は、はやさとりて、つみはなきかや。聖教には、「一念のところにて、つみきえて」と、かくなり」と、仰せ候う。「罪のありなしの沙汰をせんよりは、信心をとりたるかとらざるかの沙汰、いくたびもいくたびも、よし。つみきえて御たすけあらんとも、つみ消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからいなり、我としてはからうべからず。ただ、信心、肝要なり」と、くれぐれ、おおせそうろうなり。
35一 「「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらわるる」(正像末和讃)というは、弥陀のかたより、たのむこころも、とうとやありがたやと念仏もうすこころも、みなあたえたまうゆえに、とやせんかくやせんと、はかろうて念仏もうすは、自力なれば、きらうなり」と、おおせそうろうなり。
36一 無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、極楽の生は無生の生というなり。
37一 「回向というは、弥陀如来の、衆生を御たすけをいうなり」と、おおせられそうろうなり。
38一 仰せに、「一念発起の時、往生は決定なり。つみけしてたすけたまわんとも、つみけさずしてたすけたまわんとも、弥陀如来の御はからいなり。つみの沙汰、無益なり。たのむ衆生を本にたすけたまうことなり」と仰せ候うなり。
39一 仰せに、「身をすてて、平坐にて、みなと同坐するは、聖人のおおせに、「四海の信心のひとは、みな