巻次 - 862頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 ところにて、つみ、みなきえて」とあるは、一念の信力にて往生さだまるときは、つみは、さわりともならず。されば、なき分なり。いのちの、娑婆にあらんかぎりは、つみはつくるなり。順誓は、はやさとりて、つみはなきかや。聖教には、「一念のところにて、つみきえて」と、かくなり」と、仰せ候う。「罪のありなしの沙汰をせんよりは、信心をとりたるかとらざるかの沙汰、いくたびもいくたびも、よし。つみきえて御たすけあらんとも、つみ消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからいなり、我としてはからうべからず。ただ、信心、肝要なり」と、くれぐれ、おおせそうろうなり。35一 「「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらわるる」(正像末和讃)というは、弥陀のかたより、たのむこころも、とうとやありがたやと念仏もうすこころも、みなあたえたまうゆえに、とやせんかくやせんと、はかろうて念仏もうすは、自力なれば、きらうなり」と、おおせそうろうなり。36一 無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、極楽の生は無生の生というなり。37一 「回向というは、弥陀如来の、衆生を御たすけをいうなり」と、おおせられそうろうなり。38一 仰せに、「一念発起の時、往生は決定なり。つみけしてたすけたまわんとも、つみけさずしてたすけたまわんとも、弥陀如来の御はからいなり。つみの沙汰、無益なり。たのむ衆生を本にたすけたまうことなり」と仰せ候うなり。39一 仰せに、「身をすてて、平坐にて、みなと同坐するは、聖人のおおせに、「四海の信心のひとは、みな 紙面画像を印刷 前のページ p862 次のページ 第二版p1033~1035へ このページの先頭に戻る