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うる機、まれなり、と、いえるこころなり。
56一 蓮如上人の御掟に、「仏法のことをいうに、世間のことにとりなすひとのみなり。それをたいくつせずして、また、仏法のことにとりなせ」と、おおせられ候うなり。
57一 聖教をすき、こしらえもちたるひとの子孫には、仏法者、いでくるなり。ひとたび、仏法をたしなみそうろうひとは、大様になれども、おどろきやすきなり。
58一 たれのともがらも、われはわろきとおもうもの、ひとりとしても、あるべからず。これ、しかしながら、聖人の御罰をこうぶりたるすがたなり。これによりて、一人ずつも心中をひるがえさずは、ながき世、泥梨にふかくしずむべきものなり。これというも、なにごとぞなれば、真実に仏法のそこをしらざるゆえなり。
59一 「みなひとの まことの信は さらになし ものしりがおの ふぜいにてこそ」、近松殿の、堺へ御下向のとき、なげしにおしておかせられ候う。「あとにて、このこころをおもいいだしそうらえ」と、御掟なり。光応寺殿の御不審なり。「ものしりがお」とは、われはこころえたりとおもうが、このこころなり。
60一 法敬坊、安心のとおりばかり讃嘆するひとなり。「言南無者」の釈(玄義分)をば、いつもはずさずひくひとなり。それさえ、「さしよせてもうせ」と、蓮如上人、御掟候うなり。ことばすくなに安心のとおりもうせと御掟なり。
61一 善宗、もうされ候う。「こころざし、もうし候うとき、わがものがおにもちてまいるは、はずかしき」よし、もうされ候う。「なにとしたることにて候うや」と、もうしそうらえば、「これは、みな、御用のものに