巻次 - 872頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 せられ候う事に候う。90一 聖教を拝み申すも、うかうかとおがみ申すは、その詮なし。蓮如上人は、「ただ聖教をば、くれ、くれ」と、仰せられ候う。また、「百反これをみれば、義理おのずからうる」と申す事もあれば、こころをとどむべきことなり。聖教は、句面のごとくこころうべし。その上にて、師伝・口業はあるべきなり。私にして会釈する、しかるべからざる事なり。91一 前々住上人、仰せられ候う。「他力信心、他力信心とみれば、あやまりなき」よし、仰せられ候う。92一 わればかりと思い、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば、仏の御慈悲をうけとり申す上は、わればかりと思うことは、あるまじく候う。触光柔軟の願候う時は、心もやわらぐべきことなり。されば、縁覚は、独覚のさとりなるが故に、仏にならざるなり。93一 一句一言も申す者は、われと思いて物を申すなり。信のうえは、われはわろし、と思い、また、報謝と思い、ありがたさのあまりを、人にも申すことなるべし。94一 「信もなくて、人に、「信をとられよ、とられよ」と申すは、わが物もたずして、人に物をとらすべき、という心なり。人、承引あるべからず」と、前住上人(実如)、順誓申されしとて、仰せられ候いき。「自信教人信」(往生礼讃)と候う時は、まず、わが信心決定して、人にも教えて、仏恩になる、とのことに候う。自心の安心決定して、教うるは、すなわち「大悲伝普化」(同)の道理なる由、同じく仰せられ候う。95一 蓮如上人、仰せられ候う。「聖教よみの聖教よまずあり。聖教よまずの聖教よみあり。一文字 紙面画像を印刷 前のページ p872 次のページ 第二版p1044・1045へ このページの先頭に戻る