巻次 - 883頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 もすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」(讃弥陀偈和讃)と、『和讃』にあそばされ候う。156一 法敬、申され候うと云々 「人より合い、雑談ありしなかばに、ある人、不図座敷を立たれ候う。上人、「いかに」と、仰せければ、「一大事の急用あり」とて、たたれけり。その後、「先日は、いかに不図御立ち候うや」と、問いければ、申され候う。「仏法の物語、約束申したるあいだ、あるもあられずして、まかりたち候う」由、申され候う。法義にはかようにぞ心をかけ候うべき事なる」由、申され候う。157一 「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。「仏法のうえより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」と云々158一 前々住上人へ、南殿にて、存覚御作分の聖教、ちと不審なる所の候うを、「いかが」とて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候えば、仰せられ候う。「名人のせられ候う物をば、そのままにて置くことなり。これが明誉なり」と、仰せられ候うなり。159一 前々住上人へ、ある人、申され候う。開山の御時のこと申され候う。「これは、いかようの子細にて候う」と、申されければ、仰せられ候う。「われもしらぬことなり。何事も何事も、しらぬことをも、開山のめされ候うように、御沙汰候う」と、仰せられ候う。160一 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。此の心にて、世間には、物もしならうなり。仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と、仰せ 紙面画像を印刷 前のページ p883 次のページ 第二版p1056・1057へ このページの先頭に戻る