巻次 - 886頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 174一 南殿にて、人々より合い、心中を、何かとあつかい申す所へ、前々住上人、御出で候いて、仰せられ候う。「何事をいうぞ。ただ、何事のあつかいも思いすてて、一心に弥陀をうたがいなくたのむばかりにて、往生は、仏のかたより定めましますぞ。その支証は、南無阿弥陀仏よ。此のうえは、何事をあつかうべきぞ」と、仰せられ候う。もし、不審などを申すにも、多事を、ただ御一言にて、はらりと、不審はれ候いしと云々175一 前々住上人、「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳なれぬれば なるこにぞのる」 此の歌を御引きありて、折々、仰せられ候う。「ただ人は、みな、耳なれ雀なり」と、仰せられしと云々176一 「心中をあらためんとまでは、思う人あれども、信をとらんと、思う人なきなり」と、仰せられ候う。177一 蓮如上人、仰せられ候う。「方便をわろしという事は、あるまじきなり。方便をもって真実をあらわす廃立の義、能く能くしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなる」由、仰せられ候うと云々178一 『御文』は、これ、凡夫往生の鏡なり。『御文』のうえに法門あるべきように思う人あり。大きなるあやまりなりと云々179一 「信のうえは、仏恩の称名、退転あるまじきことなり。あるは、心より、とうとく、あり難く、存ずるをば、仏恩と思い、ただ、念仏の申され候うをば、それほどに思わざること、大きなる誤りなり。自ずから念仏の申され候うこそ、仏智の御もよおし、仏恩の称名なれ」と、仰せ事に候う。180一 蓮如上人、仰せられ候う。「信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も、仏恩に 紙面画像を印刷 前のページ p886 次のページ 第二版p1059・1060へ このページの先頭に戻る