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代のうちさえ、かように御ちがい候う。ましてやいわん、われら式の者は、違ばかりたるべき間、一大事と存じ、つつしめ」との御事に候う。今、思いあわせられ候う」由、候うなり。また、「「よし、わろし」と、あそばされ候うこと、「わろしとばかりあそばし候えば、先代の御事にて候えば」と、思し召し、かようにあそばされ候う事に候いし」と、仰せられ候う。また「前々住上人の御時、あまた、昵近のかたがた、ちがい申す事候う。いよいよ、一大事の仏法のことをば、心をとどめて、細々、人に問い、心得申すべき」の由、仰せられ候いき。
224一 仏法者の少しのちがいを見ては、「あのうえさえ、かように候う」と、思い、我が身をふかく嗜むべきことなり。しかるを、「あのうえさえ、御ちがい候う、まして、我等は、ちがい候わでは」と、思う心、大きなるあさましきことなりと云々
225一 「仏恩を嗜む」と、仰せ候う事、世間の物を嗜むなどというようなることにては、なし。信のうえに、とうとく、有り難く存じ、よろこび申す透間に、懈怠申す時、「かかる広大の御恩を、わすれ申すことのあさましさよ」と、仏智にたちかえりて、「有り難や、とうとや」と、思えば、御もよおしにより、念仏を申すなり。嗜む、とは、これなる由の儀に候う。
226一 「仏法に厭足なければ、法の不思議をきく」と、いえり。前住上人、仰せられ候う。「たとえば、世上に、わがすきこのむことをば、しりても、しりても、なお能くしりとう思うに、人にとい、いくたびも、数奇たる事をば、聞きても、聞きても、能くしりたく思う。仏法の事は、いくたび聞きても、あかぬ事なり。し