巻次
-
899頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

信をとらせたく思し召し候う」由、仰せられ候う。
232一 重宝の珍物を調え、経営をして、もてなせども、食せざれば、その詮なし。同行、寄り合い、讃嘆すれども、信をとる人なければ、珍物を食せざると同じ事なりと云々
233一 物にあくことはあれども、仏に成ることと、弥陀の御恩を、喜びあきたる事は、なし。焼くとも失せもせぬ重宝は、南無阿弥陀仏なり。しかれば、弥陀の広大の御慈悲、殊勝なり。信ある人をみるさえ、とうとし。能く能くの御慈悲なりと云々
234一 信決定の人は、仏法の方へは、身をかろくもつべし。仏法の御恩をば、おもくうやまうべしと云々
235一 蓮如上人、仰せられ候う。「「宿善めでたし」と、云うは、わろし。御一流には、「宿善有り難し」と、申すが、よく候う」由、仰せられ候う。
236一 他宗には、法にあいたるを宿縁という。当流には、信をとることを宿善と云う。信心をうること、肝要なり。されば、この御おしえには、群機をもらさぬゆえに、弥陀の教えをば、弘教とも云うなり。
237一 法門を申すには、当流の心は、信心の一儀を申し立てられたる、肝要なりと云々
238一 前々住上人、仰せられ候う。「仏法者は、法の威力にて、なるなり。威力でなくは、なるべからず」と、仰せられ候う。「されば、仏法をば、学匠・物しりは、云いたてず。ただ、一文不知の身も、信ある人は、仏智を加えらるる故に、仏力にて候うあいだ、人が信をとるなり。此の故に、聖教よみとて、しかも、我は、と、思わん人の、仏法を云いたてたること、なし」と、仰せられ候う事に候う。ただ、なにしらねども、信心