巻次 - 930頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 後世物語聞書 ちかごろ浄土宗の明師をたずねて、洛陽ひんがしやまのほとりにまします禅坊にまいりてみれば、一京九重の念仏者、五畿七道の後世者たち、おのおのまめやかに、ころもはこころとともにそめ、身は世とともにすてたるよとみゆるひとびとのかぎり、十四五人ばかりならび居て、いかにしてかこのたび往生ののぞみをとぐべきと、これをわれもわれもとおもいおもいにたずねもうししときしも、まいりあいて、さいわいに日ごろの不審ことごとくあきらめたり。そのおもむき、たちどころにしるして、いなかの在家無智のひとびとのためにくだすなり。よくよくこころをしずめて御覧ずべし。1 あるひと問うていわく、「かかるあさましき無智のものも、念仏すれば極楽に生ずとうけたまわりて、そののちひとすじに念仏すれども、まことしくさもありぬべしとも、おもいさだめたることもそうらわぬをば、いかがつかまつるべき。」 師こたえていわく、「念仏往生はもとより破戒無智のもののためなり。もし智恵もひろく戒をもまったくたもつ身ならば、いずれの教法なりとも修行して、生死をはなれ菩提をうべきなり、それがわが身にあたわねばこそ、いま念仏して往生をばねがえ。」2 またあるひと問うていわく、「いみじきひとのためには余教をとき、いやしきひとのためには念仏をすす 紙面画像を印刷 前のページ p930 次のページ 第二版p1113・1114へ このページの先頭に戻る