巻次 - 931頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 めたらば、聖道門の諸教はめでたく、浄土門の一教はおとれるか」ともうせば、 師こたえていわく、「たといかれはふかくこれはあさく、かれはいみじくこれはいやしくとも、わが身の分にしたがいて流転の苦をまぬかれて、不退のくらいをえては、さてこそあらめ。ふかきあさきを論じてなににかはせん。いわんや、かのいみじきひとびとのめでたき教法をさとりて仏になるというも、このあさましき身の念仏して往生すというも、しばらくいりかどはまちまちなれども、おちつくところはひとつなり。善導ののたまわく、「八万四千の門々不同にして、また別なるにあらず、別々の門はかえりておなじ」(法事讃)といえり。しかればすなわち、みなこれおなじく釈迦一仏の説なれば、いずれをまされり、いずれをおとれりというべからず。あやまりて、『法華』の、諸教にすぐれたりというは、五逆の達多、八歳の龍女が仏になるととくゆえなり。この念仏もまたしかなり。諸教にきらわれ、諸仏にすてらるる悪人・女人、すみやかに浄土に往生してまよいをひるがえし、さとりをひらくは、いわば、まことにこれこそ諸教にすぐれたりともいいつべけれ。まさにしるべし、震旦の曇鸞・道綽すら、なお利智精進にたえざる身なればとて、顕密の法をなげすてて浄土をねがい、日本の恵心・永観もなお愚鈍懈怠の身なればとて、事理の業因をすてて願力の念仏に帰したまいき。このごろ、かのひとびとにまさりて智慧もふかく戒行もいみじからんひとは、いずれの法門にいりても生死を解脱せよかし。みな縁にしたがいてこころのひくかたなれば、よしあしとひとのことをば沙汰すべからず、ただわが身の行をはからうべきなり。3 またあるひと問うていわく、「「念仏すとも、三心をしらでは、往生すべからず」とそうろうなるは、い 紙面画像を印刷 前のページ p931 次のページ 第二版p1114・1115へ このページの先頭に戻る