巻次 - 932頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 かがしそうろうべき。」 師のいわく、「まことにしかなり。ただし、故法然聖人のおおせごとありしは、「三心をしれりとも念仏せずはその詮なし、たとい三心をしらずとも、念仏だにもうさば、そらに三心は具足して極楽には生ずべし」とおおせられしを、まさしくうけたまわりしこと、このごろこころえあわすれば、まことにさもとおぼえたるなり。ただしおのおの存ぜられんところのここちをあらわしたまえ。それをききて三心にあたりあたらぬよしを分別せん。」4 あるひといわく、「「念仏すれどもこころに妄念をおこせば、外相はとうとくみえ、内心はわろきゆえに、虚仮の念仏となりて真実の念仏にあらず」ともうすこと、まことにとおぼえて、おもいしずめてこころをすましてもうさんとすれども、おおかた、わがこころの、つやつやととのえがたくそうろうをばいかがつかまつるべき。」 師のいわく、「そのここちすなわち自力にかかえられて他力をしらず、すでに至誠心のかけたりけるなり。くだんの、くちに念仏をとなうれどもこころに妄念のとどまらねば虚仮の念仏といいて、こころをすましてもうすべしとすすめけるも、やがて至誠心かけたる虚仮の念仏者にてありけりときこえたり。その、こころに妄念をとどめてくちに名号をとなえて内外相応するを、虚仮はなれたる至誠心の念仏なりともうすらんは、この至誠心をしらぬものなり。凡夫の真実にして行ずる念仏は、ひとえに自力にして弥陀の本願にたがえるこころなり。すでにみずからそのこころをきよむというならば、聖道門のこころなり、浄土門のこころにあらず。 紙面画像を印刷 前のページ p932 次のページ 第二版p1115・1116へ このページの先頭に戻る