巻次
第五帖
1010頁
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(一五) 夫れ、弥陀如来の本願ともうすは、なにたる機の衆生をたすけ給うぞ。又いかように弥陀をたのみ、いかように心をもちてたすかるべきやらん。まず機をいえば、十悪五逆の罪人なりとも、五障三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重に、こころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。されば、その信心というは、いかようにこころをもちて、弥陀をばなにとようにたのむべきやらん。それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修・自力なんどいうわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころのうたがいなきを、真実信心とはもうすなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明をはなちて、ひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり。これを念仏衆生を摂取したまうということなり。このうえには、たとい一期のあいだもうす念仏なりとも、仏恩報謝の念仏とこころうべきなり。これを当流の信心をよくこころえたる念仏行者というべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(一六) 夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりて、たれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふた