巻次
第五帖
1013頁
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(二一) 当流の安心というは、なにのようもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまいらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまいらせて、御たすけそうらえともうさん衆生をば、十人は十人、百人は百人ながら、ことごとくたすけたまうべし。これさらにうたがうこころつゆほどもあるべからず。かように信ずる機を、安心をよく決定せしめたる人とはいうなり。このこころをこそ、経釈の明文には、「一念発起住正定聚」(論註)とも、平生業成の行人ともいうなり。さればただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこころうべし。このほかには、弥陀如来の、われらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもいて、行住座臥に、つねに念仏をもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(二二) 抑も、当流勧化のおもむきをくわしくしりて、極楽に往生せんとおもわんひとは、まず他力の信心ということを存知すべきなり。それ、他力の信心というはなにの要ぞといえば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまいるべき用意なり。その他力の信心のすがたというは、いかなることぞといえば、なにのようもなく、ただひとすじに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまえとおもうこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の、摂取の光明をはなちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにおさめおきましますなり。これすなわちわれらが往生のさだまりたるすがたなり。されば南無阿弥陀仏ともうす体は、われらが他力