巻次 - 1015頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 夏御文(一) 抑も、今日の聖教を聴聞のためにとて、皆々これ(山科本願寺)へ御より候うことは、信心の謂われをよくよくこころえられ候いて、今日よりは、御こころをうかうかと御もち候わで、ききわけられ候わでは、なにの所用もなきことにてあるべく候う。そのいわれをただいまもうすべく候う。御耳をすましてよくよくきこしめし候うべし。 夫れ安心と申すは、もろもろの雑行をすてて、一心に弥陀如来をたのみ、今度の我等が後生たすけたまえと申すをこそ、安心を決定したる行者とは申し候うなれ。此の謂われをしりてのうえの仏恩報謝の念仏とは申すことにて候うなり。されば、聖人の『和讃』(正像末和讃)にも、「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」とおおせられたり。このこころをもってこころえられ候わんこと、肝要にて候う。それについては、まず、「念仏の行者、南無阿弥陀仏の名号をきかば、「あは、はや、わが往生は成就しにけり。十方衆生、往生成就せずは、正覚とらじとちかいたまいし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆえに」とおもうべし」(安心決定鈔)といえり。又、「極楽という名をきかば、「あは、我が往生すべきところを成就したまいにけり。衆生往生せずは、正覚とらじとちかいたまいし法蔵比丘の成就したま 紙面画像を印刷 前のページ p1015 次のページ 初版p846へ このページの先頭に戻る