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特がともがらなりともたもちやすく、これをとなうるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらわず、在家・出家、若男・若女、老・少、善・悪の人をもわかず、なに人か、これにもれん。
 「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
このこころか。これを念仏往生とす。
 龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の中に、「仏道を行ずるに難行道・易行道あり。難行道というは、陸路をかちよりゆかんがごとし。易行道というは、海路に順風をえたるがごとし。難行道というは、五濁世にありて、不退のくらいにかなわんとおもうなり。易行道というは、ただ仏を信ずる因縁のゆえに、浄土に往生するなり」といえり。難行道というは、聖道門なり。易行道というは、浄土門なり。わたくしにいわく、浄土門にいりて諸行往生をつとむる人は、海路にふねにのりながら順風をえず、ろをおし、ちからをいれて、しおじをさかのぼり、なみまをわくるにたとうべきか。
 つぎに念仏往生の門につきて、専修・雑修の二行わかれたり。専修というは、極楽をねがうこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行をつとめて、まったく余行をまじえざるなり。他の経・呪をも、たもたず、余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号をとなえ、ひとえに弥陀一仏を念ずる、これを専修となづく。雑修というは、念仏をむねとすといえども、また余の