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えりみることなかれ」(散善義)といえり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされんや。他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらにやくべけんや。たとい欲もおこり、はらもたつとも、しずめがたく、しのびがたくは、ただ仏たすけたまえとおもえば、かならず弥陀の大悲にてたすけたまうこと、本願かぎりあるゆえに摂取決定なり、摂取決定なれば、また来迎決定なりとおもいかためて、いかなる人きたりていいさまたぐとも、すこしもやぶられざるこころを、金剛心というなり。これを回向発願心というなり。これをよくよくこころうべし。」
 七 またある人いわく、「簡要を略して三心の大意をうけたまわり候わん」と。
 七 師のいわく、「まことにしかるべし。まず一心一向なる、これ至誠心の大意なり。わがみの分をはかりて、自力をすてて他力につくこころの、ただひとすじなるを、真実心というなり。他力をたのまぬこころを、虚仮のこころというなり。つぎに他力をたのみたるこころのふかくなりて、すこしもうたがいなきを、信心の大意とす。いわゆる弥陀の本願は、すべてもとより罪悪の凡夫のためにして、聖人のためにあらずとこころえつれば、わがみのわるきにつけても、さらにうたがうおもいのなきを、信心というなり。つぎに本願他力の真実なるにいりぬるみなれば、往生決定なりとおもいかためて、ねがいいたるこころを回向発願心というなり。」
 八 またある人たずねてもうさく、「「念仏をもうせば、しらざれども三心はそらに具足せらるる」と候うは、そのようはいかに候うぞ」と。