巻次 - 1120頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 八 師こたえてのたまわく、「余行をすてて念仏をもうすは、阿弥陀仏をたのむこころのひとすじなるゆえなり。これ至誠心なり。名号をとなうるは、うたがいなきゆえなり。これ信心なり。名号をとなうるは、往生をねがうこころのおこるゆえなり。これ回向発願心なり。これらほどのこころばえは、いかなるものも念仏もうして極楽に往生せんとおもうほどの人は、具したるゆえに、無智のものも念仏だにもうせば、三心具足して往生するなり。ただ詮ずるところは、わがみはもとより煩悩具足の凡夫なれば、はじめて、こころのあしとも、よしともさたすべからず。ひとすじに弥陀をたのみまいらせて、すこしもうたがわず、往生を決定とねごうてもうす念仏は、すなわち三心具足の行者とするなり。「しらねども、となうれば自然に具せらるる」と聖人(法然)のおおせごとありしは、このいわれのありけるゆえなり。」 九 またある人のいわく、「名号をとなうるときに、念念ごとにこの三心の義を存してもうすべきにや候うらん」と。 九 師のいわく、「その義まったくあるまじ。ひとたびこころをえつるのちには、ただくちに南無阿弥陀仏ととなうるばかりなり。三心すなわち称名のこえにあらわれぬるのちには、その三心の義を、こころのそこにもとむべからず」と。貞和五歳 ひのとのうし 七月二十二日 釈定専 二十歳 紙面画像を印刷 前のページ p1120 次のページ 初版p936へ このページの先頭に戻る