巻次 - 1123頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 をば、しかしながら、ひがごとになしはてんずるか。浄土門にいりて、善導のねんごろのおしえを、やぶりもそむきもせんずるは、異学別解の人にはまさりたるあたにて、ながく三塗のすもりとして、うかぶよもあるべからず。こころうきことなり。これによりて、あるいは「上尽一形 下至十念 三念五念仏来迎 直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生」(法事讃)と、あるいは「今信知弥陀本弘誓願 及称名号 下至十声一声 定得往生 乃至一念 無有疑心」(往生礼讃)と、あるいは「若七日及一日 下至十声 乃至一声一念等 必得往生」(同)といえり。かようにこそはおおせられてそうらえ。これらの文は、たしかに一念多念なかあしかるべからず、ただ、弥陀の願をたのみはじめてん人は、いのちをかぎりとし、往生を期として念仏すべしと、おしえさせたまいたるなり。ゆめゆめ偏執すべからざることなり。こころのそこをば、おもうようにもうしあらわしそうらわねども、これにてこころえさせたまうべきなり。 おおよそ、一念の執かたく、多念のおもいこわき人々は、かならずおわりのわるきにて、いずれもいずれも、本願にそむきたるゆえなりということは、おしはからわせたまうべし。されば、かえすがえすも、多念すなわち一念なり、一念すなわち多念なりということわりを、みだるまじきなり。南無阿弥陀仏本云 紙面画像を印刷 前のページ p1123 次のページ 初版p938・939へ このページの先頭に戻る