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ては、ひとえに弥陀のちかいをたのみ、あおぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏、かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身をてらしまもらせたまえば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしはひる、もしはよる、一切のとき、ところをきらわず、行者を護念して、目しばらくもすてたまわず、まさしくいのちつき、いきたえんときには、よろずのつみをばみなうちけして、めでたきものにつくりなして、極楽へいてかえらせおわしますなり。
されば、つみのきゆることも南無阿弥陀仏の願力なり。めでたきくらいをうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり。ながくとおく三界をいでんことも阿弥陀仏の本願のちからなり。極楽へまいりて、のりをきき、さとりをひらき、やがて仏にならんずることも、阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまいることなしとおもいて、余行をまじえずして、一向に念仏するを他力の行とはもうすなり。たとえば、腰おれ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆく事は、かけてもおもいよらぬことなれども、たのみたる人のいとおしとおもいて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて、むかえにきたりて、やわらかにかきのせて、かえらんずる十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐる様に、われらが極楽へまいらんとおもいたちたるは、つみふかく煩悩もあつければ、腰おれ足なえたる人々にもすぐれたり。
ただいまにても死するものならば、あしたゆうべにつくりたるつみのおもければ、こうべをさかさ
