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はなきなり。たとえば、日いずれば、刹那に、十方のやみ、ことごとくはれ、月いずれば、法界の水、同時にかげをうつすがごとし。月はいでて、かげを水にやどす。日はいでて、やみのはれぬことあるべからず。かるがゆえに、日はいでたるか、いでざるかをおもうべし。やみは、はれざるか、はれたるかをうたがうべからず。仏は正覚なりたまえるか、いまだなりたまわざるかを分別すべし。凡夫の、往生をうべきか、うべからざるかを、うたがうべからず。「衆生往生せずは、仏にならじ」とちかいたまいし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまえり。仏体よりは、すでに成じたまいたりける往生を、つたなく今日までしらずして、むなしく流転しけるなり。
 かるがゆえに、『般舟讃』には、「おおきにすべからく慙愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といえり。「慙愧」の二字をば、天にはじ、人にはず、とも釈し、自にはじ、他にはず、とも釈せり。なにごとをおおきにはずべしというぞというに、弥陀は、兆載永劫のあいだ、無善の凡夫にかわりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世にいでて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。機より成ずる大小乗の行ならば、法はたえなれども、機がおよばねばちからなし、ということもありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて、功を無善のわれらにゆずりて、謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずということなき功徳なり。このことわりを慇懃につげたまうことを信ぜず、しらざることを、おおきにはずべしというなり。「三千大千世界に、芥子ばかりも、釈尊の身命