巻次
1138頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

という。かるがゆえに、念仏の行者になりぬれば、いかに仏をはなれんとおもうとも、微塵のへだてもなきことなり。仏のかたより機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまいたりけるゆえに、なにとはかばかしからぬ下下品の失念のくらいの称名も往生するは、となうるときはじめて往生するにはあらず。極悪の機のために、もとより成じたまえる往生をとなえあらわすなり。また『大経』の三宝滅尽の衆生の、三宝の名字をだにも、はかばかしくきかぬほどの機が、一念となえて往生するも、となうるときはじめて往生の成ずるにあらず。仏体より成ぜし願行の薫修が、一声称仏のところにあらわれて、往生の一大事を成ずるなり。かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて、念仏をももうし、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまいし仏の功徳、十劫正覚の刹那に、われらにおいて成じたまいたりけるが、あらわれもてゆくなり。覚体の功徳は、同時に十方衆生のうえに成ぜしかども、昨日あらわすひともあり、今日あらわすひともあり。已今当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらわれもてゆくゆえに、仏の願行のほかには別に、機に信心ひとつも行ひとつも、くわうることはなきなり。念仏というは、このことわりを念じ、行というは、このうれしさを礼拝恭敬するゆえに、仏の正覚と衆生の行とが一体にしてはなれぬなり。したしというも、なおおろかなり、ちかしというも、なおとおし。一体のうちにおいて、能念・所念を体のうちに論ずるなりとしるべし。