巻次 末 1146頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 一 四種往生の事。 四種の往生というは、一つには正念往生。『阿弥陀経』に「心不顚倒 即得往生」ととく、これなり。二つには狂乱往生。『観経』の下品にときていわく、「十悪・破戒・五逆、はじめは臨終狂乱して手に虚空をにぎり、身よりしろきあせをながし、地獄の猛火現ぜしかども、善知識におうて、もしは一声、もしは一念、もしは十声にて往生す。」三つには無記往生。これは『群疑論』にみえたり。このひと、いまだ無記ならざりしとき、摂取の光明にてらされ、帰命の信心おこりたりしかども、生死の身をうけしより、しかるべき業因にて無記になりたれども、往生は他力の仏智にひかれて、うたがいなし。たとえば睡眠したれども、月のひかりはてらすがごとし。無記心のなかにも摂取のひかりたえざれば、ひかりのちからにて無記の心ながら往生するなり。因果の理をしらざるものは、なじに仏の御ちからにて、すこしきほどの無記にもなしたまうぞと難じ、また無記ならんほどにては、よも往生せじなんどおもうは、それはくわしく聖教をしらず、因果の道理にまどい、仏智の不思議をうたがうゆえなり。四つには意念往生。これは『法鼓経』にみえたり。こえにいだしてとなえずとも、こころに念じて往生するなり。この四種の往生は、黒谷の聖人(法然)の御料簡なり。よのつねには、くわしくこのことをしらずして、臨終に念仏もうさず、また無記ならんは往生せずといい、名号をとなえたらば往生とおもうは、さることもあらんずれども、それはなお、おおようなり。五百の長者の子は、臨終に仏名をとなえたりしかども、往生せざ 紙面画像を印刷 前のページ p1146 次のページ 初版p958・959へ このページの先頭に戻る