巻次 行 175頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 入るを「歓喜地」と名づくと。 問うて曰わく、初地、何が故ぞ名づけて「歓喜」とするや。 答えて曰わく、初果の、究竟して涅槃に至ることを得るが如し。菩薩、是の地を得れば、心、常に歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増長することを得。是の故に此くの如きの人を賢善者と名づくることを得。「初果を得るが如し」というは、人の、須陀洹道を得るが如し。善く三悪道の門を閉ず。法を見、法に入り、法を得て、堅牢の法に住して傾動すべからず。究竟して涅槃に至る。見諦所断の法を断ずるが故に、心、大きに歓喜す。設使い睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。一毛を以て百分と為して、一分の毛を以て大海の水を分かち取るが如きは、二三渧の苦、已に滅せんが若し。大海の水は、余の未だ滅せざる者の如し。二三渧の如き心、大きに歓喜せん。菩薩も是くの如し。初地を得已るを「如来の家に生まる」と名づく。一切天・龍・夜叉・乾闥婆 乃至 声聞・辟支等、共に供養し恭敬する所なり。何を以ての故に。是の家、過咎有ること無し。故に世間道を転じて出世間道に入る。但、仏を楽敬すれば、四功徳処を得、六波羅蜜の果報を得ん。滋味、諸の仏種を断 紙面画像を印刷 前のページ p175 次のページ 初版p162へ このページの先頭に戻る