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 答えて曰わく、諸部の大乗に依りて念仏三昧の功能の不可思議なるを顕さんとなり。何とならば、『華厳経』に云うが如し。「譬えば人有りて、師子の筋を用て、以て琴の絃とせんに、音声一たび奏するに、一切の余の絃、悉く皆断壊するが如し。若し人、菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩・一切の諸障、悉く皆断滅すと。亦人有りて、牛・羊・驢・馬一切諸乳を搆し取りて一器の中に置かんに、若し師子の乳一渧を将て之を投ずるに、直ちに過ぎて難無し。一切の諸乳、悉く皆破壊して、変じて清水と為るが如し。若し人、但能く菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障、直ちに過ぐるに難無し。」
 又彼の『経』(華厳経)に云わく、「譬えば人有りて、翳身薬を持ちて処処に遊行するに、一切の余行、是の人を見ざるが如し。若し能く菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪神・一切の諸障、是の人を見ず。諸の処処に随いて、能く遮障すること無きなり。何が故ぞとならば、能く此の念仏三昧を念ずるは、即ち是れ一切三昧の中の王なるが故なり」と。」
 又云わく(安楽集)、「『摩訶衍』(大智度論)の中に説きて云うが如し。「諸余の三昧、三昧ならざる