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『釈』(易行品)には「必定」と云えり。「即」の言は、願力を聞くに由りて報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり。「必」の言は 審なり。然なり。分極なり、金剛心成就の貌なり。

 『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、「夫れ、如来、教を設けたまうに、広略、根に随う。終に実相に帰せしめんとなり。真の無生を得ん者には、熟か能く此れを与えんや。然るに念仏三昧は、是れ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号を以て、焉に仏、願力を事として衆生を度したまう。乃至 如来、常に三昧海の中に於いて細綿を挙げたまえるをや。父の王に謂いて曰わく、「王、今、座禅して但当に念仏すべし」と。豈に離念に同じて無念を求めんや、生を離れて無生を求めんや、相好を離れて法身を求めんや、文を離れて解脱を求めんや。乃至 爾れ大なるかな、至理の真法。一如にして物を化し人を利す。弘誓各別なるが故に、我が釈迦、濁世に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまう。方は穢・浄両殊なりと雖も、利益斉一なり。若し修し

漢文

由聞願力光闡報土真因決定時剋之極促也。必言 審也。然也。分極也、金剛心成就之貌也。