巻次 信 249頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩うるなり。「無人空迥の沢」と言うは、即ち常に悪友に随いて、真の善知識に値わざるに喩うるなり。「水火二河」と言うは、即ち衆生の貪愛は水の如し、瞋憎は火の如しと喩うるなり。「中間の白道四五寸」と言うは、即ち衆生の貪瞋煩悩の中に能く清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。乃し貪瞋強きに由るが故に、即ち水火の如しと喩う。善心微なるが故に、白道の如しと喩う。又「水波、常に道を湿す」というは、即ち愛心、常に起こりて能く善心を染汚するに喩うるなり。又「火焰、常に道を焼く」というは、即ち瞋嫌の心、能く功徳の法財を焼くに喩うるなり。「人、道の上を行きて直ちに西に向かう」と言うは、即ち諸の行業を回して、直ちに西方に向かうに喩うるなり。「東の岸に、人の声、勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進む」と言うは、即ち釈迦、已に滅したまいて後の人、見たてまつらず。由、教法有りて尋ぬべきに喩う。即ち之を声の如しと喩うるなり。「或いは行くこと一分二分するに、群賊等、喚び回す」と言うは、即ち別解・別行・悪見の人等、妄説し見解をもって迭いに相惑乱し、及び自ら罪を造りて退失すと喩うるなり。「西の岸の上に、人有りて喚ばう」と言うは、即ち弥陀の願意に喩うるなり。「須臾に西の岸に到りて、善友、相見えて喜ぶ」と言うは、即ち衆生、久し 紙面画像を印刷 前のページ p249 次のページ 初版p220・221へ このページの先頭に戻る