巻次 信 272頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 漢文 画像情報 画像情報 本文 は、斯れ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。 是を以て『大経』に言わく、「諸有衆生、其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心回向したまえり。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん」と。 又(如来会)「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、能く一念の浄信を発して歓喜せん」と言えり。 又(大経)「其の仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲え」と言えり。 又言わく(如来会)、「仏の聖徳の名を聞く」と。已上 『涅槃経』(迦葉菩薩品)に言わく、「云何が名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり。唯、六部を信じて、未だ六部を信ぜず。是の故に名づけて「聞不具足」とす。復た是の六部の経を受持すと雖も、読誦に能わずして他の為に解説するは利益する所無けん。是の故に名づけて「聞不具足」とす。又復、是の六部の経を受け已りて、論議の為の故に、勝他の為の故に、利養の為の故に、諸有の為の故に、持読誦説せん。是の故に名づけて「聞不具足」とす」とのたまえり。已上 光明寺の和尚(善導)は「一心専念」(散善義)と云い、又「専心・専念」(同)と云えりと。已上 然るに、『経』(大経)に「聞」と言うは、衆生、仏 漢文 顕信楽開発時剋之極促、彰広大難思慶心也。然『経』言「聞」者、衆生聞仏願生起本 紙面画像を印刷 前のページ p272 次のページ 初版p239・240へ このページの先頭に戻る