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て摂護して捨てたまわず。総て余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。此れ亦是れ現生護念増上縁なり」と。已上
 又云わく(序分義)、「「心歓喜得忍」(観経)と言うは、此れは阿弥陀仏国の清浄の光明、忽ちに眼前に現ぜん、何ぞ踊躍に勝えん。茲の喜に因るが故に、即ち無生の忍を得。亦「喜忍」と名づく。亦「悟忍」と名づく。亦「信忍」と名づく。此れ乃ち玄かに談ずるに、未だ得処を標さず。夫人をして等しく心に此の益を悕わしめんと欲う。勇猛専精にして心に見んと想う時に、方に忍を悟るべし。此れ多く是れ十信の中の忍なり。解行已上の忍には非ざることを明かすなり」と。
 又云わく(散善義)、「「若念仏者」(観経)というより下、「生諸仏家」(同)に至るまで已来は、正しく、念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をして比類とすることを得るに非ざることを顕す。即ち其れに五有り。一には弥陀仏の名を専念することを明かす。二には能念の人を指讃することを明かす。三には、若し能く相続して念仏する者、此の人、甚だ希有なりとす。更に物として以て之に方ぶべきこと無きことを明かす。故に芬陀利を引きて喩とす。「分陀利」と言うは、「人中の好華」と名づく。亦「希有華」と名づく。亦「人中の上上華」と名づく。亦「人中の妙好華」と名づく。此の華、相伝えて「蔡華」と名づくる是れなり。若し念仏の者は、即ち是れ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四には、弥陀名を専念すれば、即ち観音・勢至、常に随いて影護したまうこと、亦親友知識の如くな