巻次
真仏土
362頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

 又言わく(師子吼菩薩品)、「「一切覚者を、名づけて「仏性」とす。十住の菩薩は、名づけて「一切覚」とすることを得ざるが故に、是の故に見ると雖も明了ならず。善男子。見に二種有り。一には眼見、二には聞見なり。
 諸仏世尊は、眼に仏性を見そなわす。掌の中に於いて阿摩勒菓を観ずるが如し。十住の菩薩、仏性を聞見すれども、故ら了了ならず。十住の菩薩、唯能く自ら定んで阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知りて、一切衆生は悉く仏性有りと知ること能わず。善男子。復た眼見有り。諸仏如来なり。十住の菩薩は、仏性を眼見し、復た聞見すること有り。一切衆生、乃至九地までに仏性を聞見す。菩薩、若し「一切衆生悉く仏性有り」と聞けども心に信を生ぜざれば、「聞見」と名づけず」と。乃至
 師子吼菩薩摩訶薩言さく、「世尊。一切衆生は如来の心相を知ることを得ること能わず。当に云何が観じて知ることを得べしや。」
 「善男子。一切衆生は、実に如来の心相を知ること能わず。若し観察して知ることを得んと欲わば二の因縁有り。一には眼見、二には聞見なり。
 若し如来所有の身業を見たてまつらんは、当に知るべし、是れ則ち如来とするなり。是れを「眼見」と名づく。若し如来所有の口業を観ぜん。当に知るべし、是れ則ち如来とするなり。是れを「聞見」と名づく。若し色貌を見たてまつること、一切衆生の、与に等しき者無けん。当に知るべ