巻次 - 500頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 漢文 画像情報 画像情報 本文 回向発願心の中に云わく(散善義)、「此の心、深信せること金剛の若くなるに由る」と。 明らかに知りぬ。一心は是れ信心なり。専念は即ち正業なりと。一心の中に至誠・回向の二心を摂在せり。向の問の中に答え竟りぬと。 又問う。已前二経の三心と『小経』(阿弥陀経)の「執持」と一異云何ぞや。 答う。『経』(阿弥陀経)に言わく、「名号を執持すべし」と。「執」は心堅牢にして移らず、「持」というは不散不失に名づく。故に「不乱」と曰えり。「執持」は即ち「一心」なり。「一心」は即ち信心なりと。然れば則ち、「執持名号」の真説、「一心不乱」の誠言、必ず之に帰すべし、特に之を仰ぐべし。論家・宗師、浄土真宗を開きたるに、濁世の邪偽を導かんとなり。 三経の大綱、隠顕有りと雖も、一心を能入とす。故に経の始めに「如是」と称す。論主(天親)、建め 漢文 明知。一心是信心。専念即正業。一心之中摂在至誠回向之二心。向問中答竟。又問。已前二経三心与『小経』「執持」一異云何。答。『経』言、「執持名号。」執者心堅牢而不移、持者名不散不失。故曰「不乱。」執持即一心。一心即信心。然則執持名号之真説、一心不乱之誠言、必可帰之、特可仰之。論家宗師、開浄土真宗、導濁世邪偽。三経大綱雖有隠顕、一心為能入。故経始称「如是。」論主建言「一心。」即是彰如 紙面画像を印刷 前のページ p500 次のページ 初版p419・420へ このページの先頭に戻る