巻次 - 501頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 漢文 画像情報 画像情報 本文 に「一心」と言えり。即ち是れ如是の義を彰すなり。 今、宗師(善導)の『解』(定善義)を披きたるに云わく、「「如意」と言うは二種有り。一には衆生の意の如し。彼の心念に随うて、皆之を度すべし。二に弥陀の意の如し。五眼円に照らし、六通自在にして、機の度すべき者を観そなわして、一念の中に前無く後無く、身心等しく赴き、三輪開悟して、各おの益したまうこと、同じからずとなり。」 又言わく(般舟讃)、「敬いて一切往生の知識等に白さく、大きに須く慙愧すべし。釈迦如来は、実に是れ慈悲の父母なり。種種に方便して、我等が無上の信心を発起したまう」と。已上 明らかに知りぬ。二尊の大悲に縁りて、一心の仏因を獲たり。当に知るべし。斯の人は、希有人なり、最勝人なり。然るに、流転の愚夫、輪回の群生、信心起こること無し、真心起こること無し。 是れを以て『経』(大経)に言わく、「若し斯の経を聞きて信楽受持せること、難中の難なり。此れに過ぎたる難無し」と。 亦「一切世間極難信法」(称讃浄土経)と説きたまえり。 漢文 是之義。明知。縁二尊大悲、獲一心仏因。当知。斯人希有人最勝人也。然流転愚夫輪回群生、信心無起、真心無起。 紙面画像を印刷 前のページ p501 次のページ 初版p420・421へ このページの先頭に戻る