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者は執心牢からざるの人とす。故に懈慢国に生ずるなり。若し雑修せずして専ら此の業を行ずるは、此れ即ち執心牢固にして、定めて極楽国に生ず。乃至 又、報の浄土の生は極めて少なし。化の浄土の中に生ずる者は少なからず。故に経の別説、実に相違せざるなり」と。已上略出
 これらの文のこころにて、双樹林下往生ともうすことを、よくよくこころえたまうべし。
 弥陀経往生というは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本・徳本の名号をえらびて、万善諸行の少善をさしおく。しかりといえども、定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号を、おのれが善根として、みずから浄土に回向して果遂のちかいをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称・不可説・不可思議の大悲の誓願をうたがう。そのつみ、ふかく、おもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあいだ、自在なることあたわず、三宝をみたてまつらず、つかえたてまつることなしと、如来はときたまえり。しかれども、如来の尊号を称念するゆえに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆえに、難思往生ともうすな