巻次 本 630頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 超は、すなわち他力真宗の本意なり。「截」というは、きるという。五悪趣のきずなをよこさまにきるなり。「悪趣自然閉」というは、願力に帰命すれば、五道生死をとずるゆえに、「自然閉」という。「閉」は、とずというなり。本願の業因にひかれて、自然にうまるるなり。「昇道無窮極」というは、「昇」は、のぼるという。のぼるというは、無上涅槃にいたる。これを「昇」というなり。「道」は、大涅槃道なり。「無窮極」というは、きわまりなしとなり。「易往而無人」というは、「易往」は、ゆきやすしとなり。本願力に乗ずれば、本願の実報土にうまるること、うたがいなければ、ゆきやすきなり。「無人」というは、ひとなしという。人なしというは、真実信心の人は、ありがたきゆえに、実報土にうまるる人まれなりとなり。しかれば、源信和尚は「報土にうまるる人はおおからず。化土にうまるる人はすくなからず」(往生要集)とのたまえり。「其国不逆違 自然之所牽」というは、「其国」は、そのくにという、すなわち安養浄刹なり。「不逆違」は、さかさまならずという、たがわずというなり。「逆」は、さかさまという。「違」は、たがうというなり。真実信をえたる人は、大願業力のゆえに、自然に浄土の業因たがわずして、かの業力にひかるるゆえにゆきやすく、無上大涅槃にのぼるにきわまりなしと、のたまえるなり。しかれば、「自然之所牽」ともうすなり。他力の至心信楽の業因の自然にひくなり。これを「牽」というなり。「自然」というは、行者のはからいにあらずとなり。大勢至菩薩御銘文 紙面画像を印刷 前のページ p630 次のページ 初版p514・515へ このページの先頭に戻る