巻次
-
667頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

とすということばなり。いたるという。いたるというは、実報土にいたるとなり。「使」は、せしむという。「凡夫」は、すなわちわれらなり。本願力を信楽するをむねとすべしとなり。「念」は、如来の御ちかいをふたごころなく信ずるをいうなり。「即」は、すなわちという。ときをへず、日をへだてず、正定聚のくらいにさだまるを「即生」というなり。「生」は、うまるという。これを「念即生」ともうすなり。また「即」は、つくという。つくというは、くらいにかならずのぼるべきみというなり。世俗のならいにも、くにの王のくらいにのぼるをば即位という。位というは、くらいという。これを東宮のくらいにいるひとは、かならず王のくらいにつくがごとく、正定聚のくらいにつくは、東宮のくらいのごとし。王にのぼるは、即位という。これはすなわち、無上大涅槃にいたるをもうすなり。信心のひとは、正定聚にいたりて、かならず滅度にいたるとちかいたまえるなり。これを「致とす」という。むねとすともうすは、涅槃のさとりをひらくをむねとすとなり。「凡夫」というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土へい