巻次 - 668頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 たれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」ともうすなり。二河のたとえに、「一分二分ゆく」(散善義)というは、一年二年すぎゆくにたとえたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は、弥陀の本願を念ぜしめて、即生するをむねとすべしとなり。 「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」(往生礼讃)というは、如来のちかいを信知すともうすこころなり。「信」というは、金剛心なり。「知」というは、しるという。煩悩悪業の衆生をみちびきたまうとしるなり。また「知」というは、観なり。こころにうかべおもうを観という。こころにうかべしるを「知」というなり。「及称名号」というは、「及」は、およぶというは、かねたるこころなり。「称」は、御なをとなうるとなり。また、「称」は、はかりというこころなり。はかりというは、もののほどをさだむることなり。名号を称すること、とこえ、ひとこえ、きくひと、うたがうこころ、一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなうべし」となり。 これは多念の証文なり。おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念多念のあらそい、あるまじきことは、おしはからせたまうべし。浄土真宗のならいには念仏往生ともうすなり。まったく一念往生・多念往生ともうすことなし。これにてしらせたまうべし。南無阿弥陀仏 紙面画像を印刷 前のページ p668 次のページ 初版p545・546へ このページの先頭に戻る