巻次 - 666頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 かたちをあらわし、御なをしめして衆生にしらしめたまうをもうすなり。すなわち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ、不可思議光仏ともうすなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまえるがゆえに、無辺光仏ともうす。しかれば、世親菩薩は「尽十方無碍光如来」(論)となづけたてまつりたまえり。 『浄土論』に曰わく、「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまえり。この文のこころは、「仏の本願力を観ずるに、もうおうてむなしくすぐるひとなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」とのたまえり。「観」は、願力をこころにうかべみるともうす。また、しるというこころなり。「遇」は、もうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。「無」は、なしという。「空」は、むなしくという。「過」は、すぐるという。「者」は、ひとという。むなしくすぐるひとなしというは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。「能」は、よくという。「令」は、せしむという、よしという。「速」は、すみやかにという、ときことというなり。「満」は、みつという。「足」は、たりぬという。「功徳」ともうすは、名号なり。「大宝海」は、よろずの善根功徳みちきわまるを、海にたとえたまう。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに、とくみちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつがゆえに、「大宝海」とたとえたるなり。 「致使凡夫念即生」(法事讃)というは、「致」は、むねとすという。むねとすというは、これを本 紙面画像を印刷 前のページ p666 次のページ 初版p543・544へ このページの先頭に戻る