巻次 - 685頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 「汝若不能念」(観経)というは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やもうのくるしみにとじられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ、くちに南無阿弥陀仏ととなえよとすすめたまえる御のりなり。これは称名を本願とちかいたまえることをあらわさんとなり。「応称無量寿仏」(同)とのべたまえるは、このこころなり。「応称」は、となうべしとなり。「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪」(同)というは、五逆の罪人は、そのみにつみをもてること、と八十億劫のつみをもてるゆえに、十念南無阿弥陀仏ととなうべしと、すすめたまえる御のりなり。一念にと八十億劫のつみをけすまじきにはあらねども、五逆のつみのおもきほどをしらせんがためなり。「十念」というは、ただくちに十返をとなうべしとなり。 しかれば、選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(往生礼讃)ともうすは、弥陀の本願は、とこえまでの衆生、みな往生すとしらせんとおぼして、「十声」とのたまえるなり。念と声とは、ひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし。声をはなれたる念なしとなり。 この文どものこころは、おもうほどはもうさず。よからんひとにたずぬべし。ふかきことは、これ 紙面画像を印刷 前のページ p685 次のページ 初版p558・559へ このページの先頭に戻る