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教忍御坊 御返事

(九) まず、よろずの仏・菩薩をかろしめまいらせ、よろずの神祇・冥道をあなずりすてたてまつるともうすこと、このこと、ゆめゆめなきことなり。世々生々に、無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろずの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆえに、曠劫多生のあいだ、諸仏・菩薩の御すすめによりて、いま、もうあいがたき弥陀の御ちかいに、あいまいらせてそうろう御恩をしらずして、よろずの仏・菩薩をあだにもうさんは、ふかき御恩をしらずそうろうべし。仏法をふかく信ずるひとをば、天地におわしますよろずのかみは、かげのかたちにそえるがごとくして、まもらせたまうことにてそうらえば、念仏を信じたる身にて、天地のかみをすてもうさんとおもうこと、ゆめゆめなきことなり。神祇等だにも、すてられたまわず、いかにいわんや、よろずの仏・菩薩をあだにももうし、おろかにおもいまいらせそうろうべしや。よろずの仏を、おろかにもうさば、念仏を信ぜず、弥陀の御名をとなえぬ身にてこそ、そうらわんずれ。詮ずるところは、そらごとをもうし、ひがごとを、ことにふれて、念仏のひとびとにおおせられつけて、念仏をとどめんと、ところの領家・地頭・名主の御はからいどものそうろうらんこと、よくよくようあるべきことなり。
 そのゆえは、釈迦如来のみことには、念仏するひとをそしるものをば、「名無眼人」ととき、「名無耳人」とおおせおかれたることにそうろう。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃)と、たしかに釈しおかせたまいたり。この世の