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むかえんと、はからわせたまいたるによりて、行者の、よからんとも、あしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞと、ききて候う。ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、「自然」とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀仏とぞ、ききならいて候う。みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、「義なきを義とす」ということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。

愚禿親鸞八十六歳

 正嘉二歳戊午十二月 日、善法坊僧都御坊、三条とみのこうじの御坊にて、聖人にあいまいらせてのききがき。そのとき顕智これをかくなり。

(六) なによりも、こぞことし、老少男女、おおくのひとびとの、しにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。
 まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず。信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり。さればこそ、愚痴無智のひともおわりもめでたく候え。如来の御