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てなり。これによりて光明の縁にきざされて、名号の因をうというなり。かるがゆえに、宗師 善導大師の御ことなり、「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(往生礼讃)とのべたまえり。「但使信心求念」というは、光明と名号と、父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといえども、子となりていでくべきたねなきには、ちち・ははと、なづくべきものなし。子のあるとき、それがために、ちちといい、ははという号あり。それがごとくに、光明をははにたとえ、名号をちちにたとえて、光明のはは、名号のちち、ということも、報土にまさしくうまるべき信心のたねなくは、あるべからず。しかれば、信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなえられ、光明もこれを摂取するなり。されば、名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来、摂取不捨のちかい、成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかいなくは、また、行者の往生浄土のねがい、なにによりてか成ぜん。されば、本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願という、このいわれなり。本願寺の聖人の御釈『教行証』にのたまわく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁そむきなん。光明・名号の父母、これすなわち外縁とす。真実信の業識、これすなわち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」(行巻)とみえたり。これをたとうるに、日輪、須弥の半にめぐりて他州をてらすとき、このさかい闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでにあくるがごとし。しかれば、日輪のいずるによりて夜はあくるものなり。世のひと、つねにおもえらく、「夜のあけて日輪はいず」と。いまいうところは