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明沈没の煩惑、漸々にとらけて、涅槃の真因たる信心の根芽、わずかにきざすとき、報土得生の定聚のくらいに住す。すなわちこのくらいを、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」(観経)とらとけり。また光明寺(善導)の御釈(往生礼讃)には、「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」とものたまえり。しかれば、往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をうとしるべしとなり。これを他力というなり。
(3)一 無碍の光曜によりて、無明の闇夜はるる事。
 本願寺の上人 親鸞 あるとき門弟にしめしてのたまわく、「つねに人のしるところ、夜あけて日輪はいずや、日輪やいでて夜あくや。両篇、なんだち、いかんがしる」と云々 「うちまかせて、人みなおもえらく、夜あけてのち日いず」とこたえ申す。上人のたまわく、「しからざるなり」と。「日いでてまさに夜あくるものなり。そのゆえは、日輪まさに須弥の半腹を行度するとき、他州のひかりちかづくについて、この南州、あきらかになれば、日いでて、夜はあくというなり。これはこれたとえなり。無碍光の日輪、照触せざるときは、永々昏闇の無明の夜あけず。しかるにいま、宿善、ときいたりて、不断難思の日輪、貪瞋の半腹に行度するとき、無明ようやく闇はれて、信心たちまちにあきらかなり。しかりといえども、貪瞋の雲霧、かりにおおうによりて、炎王清浄等の日光あらわれず。これによりて、「煩悩障眼雖不能見」(往生要集)とも釈し、「已能雖破無明闇」(正信偈)とらのたまえり。日輪の他力、いたらざるほどは、われと無明を破すということある