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ち上無き覚をえしめたるなりといえり。蓮位、ことに皇太子を恭敬し尊重したてまつるとおぼえて、ゆめさめて、すなわちこの文をかきおわりぬ。」
 わたくしにいわく、この夢想の記をひらくに、祖師聖人、あるいは観音の垂迹とあらわれ、あるいは本師弥陀の来現としめしまします事、あきらかなり。弥陀・観音一体異名、ともに相違あるべからず。しかれば、かの御相承、その述義を口決の末流、他にことなるべき条、傍若無人といいつべし。しるべし。
(14)一 体失、不体失の往生の事。
 上人 親鸞 のたまわく、「先師聖人 源空 の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」という。小坂の善恵房 証空 は、「体失してこそ往生はとぐれ」と云々 この相論なり。ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人 源空 の御前に参じて申されていわく、「善信の御房と善恵の御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみ、くだんのおもむきを一々にのべ申さるるところに、大師聖人 源空 のおおせにのたまわく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて、「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて、「さぞ」とおおせあり。これによりて両方の是非わきまえがたきあいだ、そのむねを衆中よりかさねてたずね申すところに、おおせにのたまわく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失