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851頁
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生死をはなるべきおしえ、衆生のすみやかに往生をとぐべきすすめなり。そのゆえは、ひとえにもろもろの雑行をなげすてて、もっぱら一向専修の一行をつとむるゆえなり。これすなわち余の一切の行は、みなとりどりにめでたけれども、弥陀の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらず。念仏の一行は、これ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり、諸仏証誠の法なればなり。釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがいて念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益をうべしということ、うたがいあるべからず。かくのごとく、一向に行じ、一心に修すること、わが流のごとくなるはなし。さればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし。しかるにわれらさいわいにそのながれをくみて、もっぱらかのおしえをまもる。宿因のもよおすところ、よろこぶべし、とうとむべし。まことに恒沙の身命をすてても、かの恩徳を報ずべきものなり。釈尊・善導、この法をときあらわしたまうとも、源空・親鸞、出世したまわずは、われらいかでか浄土をねがわん。たといまた源空・親鸞、世にいでたまうとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたえがたし。善導和尚の『般舟讃』にいわく、「若非本師知識勧 弥陀浄土云何入」といえり。文のこころは、もし本師・知識のすすめにあらずは、弥陀の浄土いかんしてかいらんとなり。知識のすすめなくしては浄土にうまるべからずと、みえたり。また法照禅師の『五会法事讃』にいわく、「曠劫已来流浪久 随縁六道受輪回 不遇往生善知識 誰能相勧得回帰」といえり。この文のこころは「曠劫よりこのかた流浪せしことひさ