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853頁
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の文のこころは、「よく一念歓喜の信心をおこせば、煩悩を断ぜざる具縛の凡夫ながら、すなわち涅槃の分をう。凡夫も聖人も五逆も謗法もひとしくうまる。たとえばもろもろのみずの、うみにいりぬれば、ひとつうしおのあじわいとなるがごとく、善悪さらにへだてなし」というこころなり。ただ一念の信心さだまるとき、竪に貪・瞋・痴・慢の煩悩を断ぜずといえども、横に三界六道輪回の果報をとずる義あり。しかりといえども、いまだ凡身をすてず、なお果縛の穢体なるほどは、摂取の光明の、わが身をてらしたまうをもしらず、化仏・菩薩の、まなこのまえにましますをもみたてまつらず。しかるに一期のいのちすでにつきて、いきたえ、まなことずるとき、かねて証得しつる往生のことわり、ここにあらわれて、仏・菩薩の相好をも拝し、浄土の荘厳をもみるなり。これさらに臨終のときはじめてうる往生にはあらず。されば、至心信楽の信心をえながら、なお往生をほかにおきて、臨終のとき、はじめてえんとはおもうべからず。したがいて、信心開発のとき、摂取の光益のなかにありて往生を証得しつるうえには、いのちおわるとき、ただそのさとりのあらわるるばかりなり。ことあたらしくはじめて聖衆の来迎にあずからんことを期すべからずとなり。さればおなじきつぎしもの解釈にいわく、「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(正信偈)といえり。この文のこころは、阿弥陀如来の摂取の心光はつねに行者をてらしまもりて、すでによく無明のやみを破すといえども、貪欲・瞋恚等の悪業、くもきりのごとくして真実信心の天をおおえり。たとえば日のひかりの、