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854頁
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くもきりにおおわれたれども、そのしたはあきらかにして、くらきことなきがごとしとなり。されば信心をうるとき摂取の益にあずかる。摂取の益にあずかるがゆえに正定聚に住す。しかれば、三毒の煩悩は、しばしばおこれども、まことの信心はかれにもさえられず。顚倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。かるがゆえに、もしは平生、もしは臨終、ただ信心のおこるとき往生はさだまるぞとなり。これを「正定聚に住す」ともいい、「不退のくらいにいる」ともなづくるなり。このゆえに聖人またのたまわく、「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終まつことと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいうべし。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚に住す。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。滅度にいたるがゆえに、大涅槃を証するなり。かるがゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」といえり。これらの釈にまかせば、真実信心のひと、一向専念のともがら、臨終をまつべからず、来迎を期すべからずということ、そのむねあきらかなるものなり。
 問うていわく、聖人の料簡はまことにたくみなり。あおいで信ず。ただし経文にかえりて理をうかがうとき、いずれの文によりてか、来迎を期せず臨終をまつまじき義をこころうべきや。たしかなる文義をききて、いよいよ堅固の信心をとらんとおもう。
 こたえていわく、凡夫、智あさし。いまだ経釈のおもむきをわきまえず。聖教万差なれば、方便の説あり、真実の説あり。機に対すればいずれもその益あり。一遍に義をとりがたし。ただ祖