巻次
862頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

またいわく、「十方群生海、この行信に帰命するものを摂取してすてず。かるがゆえに「阿弥陀仏」となづけたてまつる。これを「他力」という。ここをもって龍樹大士は「即時入必定」といい、曇鸞大師は「入正定之聚」といえり。あおいでこれをたのむべし、もっぱらこれを行ずべし」といえり。「龍樹大士は「即時入必定」という」というは、『十住毘婆沙論』に「人能念是仏 無量力功徳 即時入必定 是故我常念」といえる文、これなり。この文のこころは、「ひと、よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、すなわちのとき必定にいる。このゆえにわれつねに念ず」となり。「この仏」といえるは阿弥陀仏なり。「われ」といえるは龍樹菩薩なり。さきにいだすところの「憶念弥陀仏本願力」の釈も、これ龍樹の論判によりてのべたまえるなり。「曇鸞大師は「入正定之聚」といえり」というは、『註論』(論註)の上巻に「但以信仏因縁 願生浄土 乗仏願力 便得往生 彼清浄土 仏力住持 即入大乗正定之聚」といえる文これなり。文のこころは、「ただ仏を信ずる因縁をもって、浄土にうまれんとねがえば、仏の願力に乗じて、すなわち、かの清浄の土に往生することをう。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚にいる」となり。これも文の顕説は、浄土にうまれてのち正定聚に住する義をとくににたりといえども、そこには願生の信を生ずるとき不退にかなうことをあらわすなり。なにをもってかしるとならば、この『註論』(同)の釈は、かの『十住毘婆沙論』のこころをもって釈するがゆえに、本論のこころ、現身の益なりとみゆるうえは、いまの釈もかれにたがうべからず。聖人ふかくこのこころをえたま